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昔の日本人は玄米を食べていたの?精米はいつから始まった?

タイトルの通り、昔の人は玄米をそのまま食べていたのか?
について気になり国立図書館に出向いて調べてみました。
というのも、今新しいチラシを作りましてポスティングをしています。
内容は分づき米についてです。

現在当店でお米を購入されているお客様ですが、感覚的におそらく4分の1くらいは確実に分づき米を購入されているな、と考えていたのですが実際統計をとってみたことがありませんでした。
で、チラシを作るにあたってザックリとですが統計をとってみました。
結果は、なんと38%の方が分づき米でしたw(゚o゚)w
結構な確率ですよねぇ!
因みに内訳はこんな感じです
白米=55% 7分=20% 5分=15% 3分=3% 玄米=7%
はっきりと分からないお客様も多少おりまして(玄米で購入されているがどう食べているのか?)あくまでザックリとです。

そんな今大変ニーズのある(特に当店では)分づき米についてチラシを作成したのですが
その中で、「現在のような精米技術が出来るまでは昔の人は玄米のまま食べていた」みたいな文章を記載したんです。
自分もあたりまえに漠然とそう考えており躊躇いなくそのように記載してしまったのですが、後になってちょっと待って?
本当にそうなのかな?と不安になってしまいネットなどでも調べてみました。
ですが今一つ納得できる情報を得られません(´・_・`)
で、図書館でも行ってみるかと思い麻生図書館にも行ってみましたがほとんど情報は得られませんでした。
それでもやもやがたまったままになっており、先日「東京国立図書館」に行って調べてきた次第です。
正直満足出来る情報が得られたかと言えば、う~んとなりますが、それなりの情報は得られたので記事にしたいと思います。

まずはですが、タイトルにあるこの問の答えを探るにあたって考察するに値する一つのキーワードがあります。
「脚気」です。
脚気は倦怠感、動悸、息切れ、脚のむくみやしびれ、心疾患などの症状がでる病気です。
「江戸煩い」などの言葉が表すように江戸時代に流行った病気であり、また明治時代の軍隊でも流行り問題となったようです。
原因は両時代共に急激に白米を食べるようになったためです。
白米の栄養素はそのほとんどが炭水化物です。
炭水化物をエネルギーとして代謝するにはビタミンB群、特にビタミンB1が必要になります。
玄米のヌカ層にはそれらが豊富に含まれており、それまでヌカ層まで食べて取り入れていたビタミンB群を精米技術の発達から炭水化物がほとんどの白米を食べるようになり、それによりビタミン不足に陥り糖の代謝が出来ず脚気病として症状に現れてしまったという事です。
何故現在も白米を食べているのに症状がでないのかというと、他の食べ物からビタミンB群を摂取しているからです。
当時は他の食べ物も少なく白米中心の食生活となっていたため脚気病として症状が出てしまったという事です。

この脚気の流行という歴史的事実とその生理学的な理屈により、白米を常食し始めたのは江戸時代からということで間違いはないとは思うのですが、という事はイコール?
必然的にそれまでは玄米を食べていたって事だよね!

との論を当たり前に考えていました。
だからチラシにもそのような文面を載せました。

前置きはここまでとしまして、それではこのような脚気の歴史的な知識を前提としてお話した上で、タイトルのテーマに関する事柄を図書館で調べてきた情報を元に色々な観点から書いていこうかと思います。

引用含め、かなり長くなるかと思いますが(*゚ェ゚*)

まずは初めに手に取って読んだ以下の書籍から気になる部分を抜粋してみます。

「食生活の歴史」 著:瀬川清子 講談社

白米は江戸中期に普及したと推定している人があるが ~~~ 脚気を江戸病といったことなどは都会人が白米食をしていても地方はまだ黒い米を食べていたことを想像させる



確かにそうですね、この頃は都会(江戸)だけは白米を常食していたと考えられますね。

それでは江戸時代の脚気が流行った時の前までは白米は食べられていなかったのだろうか?
以下の書籍を読むとそれまでにも脚気病が現れていた事が書かれていることから答えはNOとしておいた方がよさそううです。

「米と日本人」 著:篠田統 角川新書

九条師輔の日記(974)にみえる荷前(のまき)の儀式に藤原尹甫が脚気で右脚が腫れているからと称してはなはだしく遅参して処罰された記事は、わが国の脚気の最古の記録かもしれない。
以降平安朝・鎌倉・室町と、脚気、脚病、風脚疾・あしのけなどの記事がパラパラならぶが、脚が痛んだり腫れたりしたのが全部ひとまとめゆえ、どこまでが脚気で、どこからが腎臓、心臓、神経痛、などやらわからない。ただ、白米食が進行しるにしたがってこの記事がふえることだけは確かである。
江戸期に入ると、天下の泰平とともに人心はゆるみ、白米食は増える一方。おまけに一日二食が三食に固定する。人口の急激に集中した江戸へは乾燥の悪い東北米が移入される。脚気の流行はもう時間の問題である。



江戸時代以前から白米は食べられていたが、江戸時代の江戸人のように常食していたのは一部の上流階級人と考えるのが妥当なのでしょうね。

さて、脚気と白米の常食は精米技術の進化により達成させられたのは言うまでもないですが
それでは江戸時代の何時頃から精米技術が発達し江戸人は白米を食べるようになったのだろうか?

次の書籍にその時代が書かれています。
そして今回の一番のテーマである精米技術が発達する前の米について言及されていきます。

「実験精米要説」 著:二瓶貞一

徳川時代、享保、元禄以降の白米食の一般に常用されるまでは、玄米或いは之に近いものを食米としたことは既に述べたところであるが、古代のいわゆる玄米食とは如何なるものであるか。



元禄が1688~1704年、享保が1716~1736年です。
この2つの元号で共に3回大流行があったことは上記「米と日本人」にも書かれており歴史的定説かもしれません。

脱穀調整用具の輸入発明されたことは、概ね元禄以降のことで上古から元禄までの米の搗精方法は杵と臼とによって直接モミから搗精したものと考えられる。



続いて著者は昔ながらの杵と臼で籾摺りの実験を行いその結果が書かれているのだが、長くなるので引用ではなく自分なりにまとめてみます。

実験は杵と臼の人力による籾摺りで、二斗(36リットル)の籾を全部籾がなくなるまで行う。
結果要した回数は2700杵で(突いた数なのかな?)、時間は2時間20分かかったそうだ。
これはあくまで籾付きのお米の籾を取り除くために行ったものである。
その結果籾が取れるだけでなく、籾を取るために搗いたことにより玄米のヌカ層もある程度削れて、精白米に近いもの、7、8分くらいのものもみられ平均すると5分づき程度のお米になったとの事だ。

そしてこの結果から著者はこう結論づける。

かくすれば古代のいわゆる玄米と、吾人が今日いう所の玄米とは、全く異なるものといわねばならない。



籾を取るために杵と臼で搗くと自然と玄米のヌカ層はある程度削られてしまい、今日食べられている表面がテカテカの所謂玄米とは違うということだ。
ハッキリいってしまえば古代人は玄米ではなく分づき米を食べていたという事になる。

うーん、説得力あります。
ということでここで訂正とお詫びをさせて頂きます。
昔の人は玄米そのまま食べていたというチラシの記述は適切な表現では御座いませんでした。
申し訳御座いませんでした(´・_・`)

ただこの実験はかなり丁寧に籾を取る作業だった感じなので、それで平均5分づきくらいだったのであれば、実際古代人の籾取り作業がそこまで時間かけて丁寧にはやってなかったと想定するともっと玄米に近い1分~3分づきくらいだったのではないかと考える。

もう少し話を進めてみましょう。

享保、元禄以降においては、もみすり、臼唐箕萬石等の極めて便利な調整器具も現れ、もみを一旦玄米となし、玄米から搗精して白米となし、ヌカ抜も誠容易になり、それに水車等により機械力を用いて搗精するやうになり、大いに搗精程度も進み比較的容易に今日に精白米に近いものが得られるやうになったのである。



この時代に籾摺り、と精米が別の工程となったわけですね。
ある意味いわゆる今日の玄米は籾摺り機の発明と共に生まれた概念といってもよさそうですね。
それまでは上記したように籾すりと精米の工程が一緒くたで、その結果その時代まで籾殻だけが綺麗に取れたいわゆる今日言う所の玄米が現れるタイミングが存在しえなかったということになりますね。

さて、既に結論は出てしまった感がありますがこれまで述べたことを補強する形で他の書籍からも引用していきたいと思います。

「日本人の食生活史」 著:下田吉人

米の食べ方(1)-精米
古くは穂だけを刈り取って、租税にも稲穂を用いたが、やがて稲を根本から切り取って、モミを落として収穫するよになった。
モミを脱穀するのには、ウスを用い、キネで搗いた。そして得られた玄米を食用とした。もちろん、現在の玄米でなく、2,3分搗かれた玄米であっただろう。
神事や祝祭には、白米を用いるようになった。平安朝時代、すでに糠店があったから、白米も売られたことであろう。
しかし徳川のはじめまでは玄米が主で、白米はぜいたくとされていた。徳川家康が鷹狩りのとき、家来の滝善左衛門が白米の弁当を持ってきているのをとがめたので、善左衛門は、くるしまぎれに、これはキラズ(豆腐の粕)でございますと答えたとういう話が伝えられている。
徳川時代になってから、一般が白米を食べるようになった。しかし農民は雑穀が主であり、都会の人たちも、白米といっても現在の5分づきかせいぜい7ぶづきくらいのものを白米として、喜んで食べていた。水車を用いて搗くようになり、ことに搗き粉を用いて搗くようになってから、今日のような白米に近いものが食用とされるようになった。



最後に同じ書から、各時代の米の食べ方を紹介します。

古代人の米料理
米は稲を刈り取って収穫し、租税などにもこの穂を束ねたものを用いた。
これを搗いて脱穀し、今の玄米か2、3分づきのものを食用に供した。

平安朝時代の米料理
強飯(こわいい)→玄米の蒸したもの
姫米(ひめいい)→白米の蒸したもの
が用いられた。
すなわち姫米は米の精米が始まったことを示している。
京都市中にヌカを売る店が初めて出来たという記録もある。

鎌倉時代の米料理
強米と姫米が主な米料理であった。上記では姫米を用いたと記してあるが、せいぜい今日の半搗米程度のものであったと考えられる。また糒(ほしいい)や焼米も作られている。強飯や姫飯の食べ方として、湯づけや汁かけ飯が多く記録されている。



以上で考察は終わりとします。
長い文章読んで頂きまして有難う御座います。

結論的には、江戸時代に急速に精米技術が高まり、都市部では白米がよく食べられるようになったこと。
特に籾取りと精米の工程が分かれた事は重要なポイントである事。
そしてそれまでは臼と杵によって籾の状態から搗かれていたため、今でいう所の完全な玄米ではなく「玄米~3分づき」位のお米を食べていただろう事。

これらの点がタイトルの問に対しての大きなポイントと答えになるのではと考えます。
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